菊池が書いたのは一言で言えば正確無比で硬質な文章だったru486 販売。それは彼が著した伝記『中上川彦次郎君』(1906-07)を引けば一目瞭然である。
日本の社会には貴顕学者の類、重きをなして富豪紳商は裏面に隠るゝの陋習あり。左れば君は独立自尊の主義よりして三井家の連枝が天下に闊歩し、内外に交際を拡むるの必要を認めたるが如し。但し数多き各自の邸宅に会堂を構へんよりは共同集会所を設けて重役等も場合により使用の慶に頼るを便利と思ひしにや。丸の内に三井集会所なるものを設けたりしが、素より是にて満足したるにはあらず、更に大規模のものを新築して盛に西洋交際の趣に摸せんとは窃に胸中に設計したる所なる可し。(『中上川彦次郎伝記資料』239頁)
菊池は中上川の伝記作家であったが、文体まで中上川そっくりであった。両者が同時に編集部に在籍していたならその区別にはたいそう難儀したであろうが、幸いにして中上川の退社と菊池の入社には2ヶ月の間がある。1887年04月以降に中上川のような文章を書く氏名不詳の記者がいたら、それは菊池である可能性が大である。
井田は1889年05月の「時事新報」欄を検討して、石河以外の起筆者として桑田豹三と仮にYとする記者の二名を見いだした(『歴史とテクスト』64頁)。調べてみるとこのYが菊池なのであった。すなわち『中上川彦次郎君』には、井田がYの特徴として挙げている「直ちに」「予て」が散見できるし、なにより他の記者には見られない「にて」を「軈て」と表記するところが決定的である。井田によると、このY(菊池)の表記上の特徴は、ほかに「濫に」「猶ほ」「顧ふに」「惧れ」「都て」などであるという。
菊池の在職期間を1887年04月から1891年06月までと1892年07月から1894年12月までに分けるならば、福沢が菊池を高く評価する書簡を残したのは1891年までの前期に限られる。復職後にも前期と同様の処遇を受けていたところをみると論説は発表していたのだろうが、すでに福沢の寵愛は失っていたのではないか五便宝カプセル。この推測は、前にも引用した石河の「二十四五年頃からは自ら草せらるゝ重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ」という証言とも一致する。明治24年は1891年であり、この記述は菊池がいったん時事新報社を離れたときの状況を示しているのであろう。
福沢が「菊池は中々宜敷」と書いた1889年06月から同年08月までに期間を限定して菊池が起筆したと推定できる論説を挙げると以下のようになる。
タイトルの付け方まで中上川と似ているようだ。現行の『全集』をざっと見渡しても、この時期の菊池の登板回数はかなり多い。石河起筆のものと菊池のものとが交互に出てくるような頻度である。ここで挙げた5編はいずれも昭和版になって『全集』に収録されたものであり、いっぽうこの時期の福沢執筆とおぼしき論説はいずれも大正版の「時事論集」に入っているので、かえって1889年頃までの大正版所収論説の信憑性の高さが確認できるといえる。
推定カテゴリーについては、これらにとくに福沢らしいところがあるわけではないが、当時の書簡から積極的に論説に関わっていることが確かめられるので、いずれも福沢の思想の内にあるものと判断した。とはいえ、福沢が菊池に「だいたいこんなものを書け」と命ずると、菊池はその期待に応えるよい論説を仕上げてもってくる、という程度の関与だったのではなかろうか。この5編のテーマはいずれも軽いもので、菊池の方からの完全な持ち込み論説であった可能性も残されている。
なお、渡辺が去った1889年から1891年まで『時事新報』社説欄を担っていたのは石河と菊池だったのだが、不自然なことに『福沢諭吉伝』には菊池のことが一言も触れられていない。クーデタ騒動に菊池を引っ張り込んだ負い目があるからであろうか。伝記が出版されたとき、自分が登場していないことを知った菊池がよく抗議しなかったものだ。
相关的主题文章:
